信隆寺の歴史

 信隆寺の起原を訪ねれば、遠く明治15年にさかのぼる。
 この年、京都に居られた開導日扇上人が東京へと布教を行うため、直弟子日教上人を使わし、墨田区東京支部清雄寺に拠って、教化活動を始められたのにはじまる。
 日教上人の努力により日に日に信者を増し、明治28年には、信者統轄のため  八組を制定されるに至った。その中の一組が本唱組であり、今日の信隆寺の母胎  である。
 日教上人はその後も更に、数十組を作られたが、最初の組である本唱組には特に、お心を掛けられ、しばしば信者の家々を回り、信心増進を計られた。信者もまた熱心に励み、本唱元組、東、西、南組と分組する程の信者数を獲得するに至った。
 明治44年8月25日、日扇上人が遷化され、当組より代表二名が京都本部宥清寺で行われた葬儀に参列することとなった。この時、たまたま日扇上人の墓所に火を
焚いて夜の守護に当られていた僧侶の中に若く気鋭の僧現歓(げんかん)さんという人を知った。
 翌45年、続いて日教上人が遷化せられ、先の二人が葬儀に参列、現歓さんの
熱烈な法話を聞き、深い感銘を享けて戻って来た。
 父とも仰いでいた日教上人がいなくなった後、本唱組を担当する新しい導師を
迎えるに当たり、当時の組長 前島治輔、京都で知ったった現歓師を推挙、組員は
直ちに一決して手続きに取りかかった。
 現歓師は京都本部の小野山日風上人の婿で、将来を嘱望されていた。東京からの
思いも掛けぬ要望に日風上人も縁を感じ許可され、本唱組を担当される事になった。
 小野山現歓 27・8歳、熱烈たる気概の人。信者一同もその熱意と高潔な人柄を敬い、いよいよ信心強情に一致団結した。
 開組25周年の大正7年には、京都本部宥清寺にて弘通成績、全国諸組中第2位
にて、講有日随上人より行賞され、猊下開眼の御尊像を授与された。その尊像は今日信隆寺の大尊像の胎内仏として、安置されている。
 日随上人にはその後高齢をもかえりみず、朝鮮まで布教に渡られたが、大正9年に遷化されるや、京都宥清寺内に跡継ぎ問題の紛議が生じ、東京支部の清雄寺もその
渦中に呑まれた。本唱組もその態度につき会合を数十回を重ね、ついに汚濁を極めた清雄寺を捨て、京都本部宥清寺直轄を出願し、東京信隆支部として本所区にささやかながら小梅教会所を開設。信隆寺への第一歩を踏み出した。
 その頃、導師養父小野山日風上人より名跡継承のため現歓師を京都へ戻すよう要請があり、組内は鳴りをしづめたが、現歓師は「去るに忍びず」と生涯を本唱組と共に生きると決意をされ、養子縁組を解消された。やがて奥様と長女初子さんともに京都へ戻し、単身教会所に残られた。せめて初子だけは離したくなかったと、洩らされた現歓師の心中、いかばかりかと察しられる。この時より姓は大久保に還り、日康と号した。当山開基圓成院日康上人である。その決意は日康上人の熱烈な気性をよく現していると言えよう。
 信者もまた導師の心情を思い、信仰の結束いよいよ堅く、信心に励んだのは言うまでもない。
 日康上人には小梅教会所に只一人の生活が始まった訳ではあるが、それを助ける新しい三人の信者が仏弟子となられた。小荷田、新井、佐藤の三氏である。しかし後日小荷田、新井に二氏は還俗され、佐藤義宣師一人が師の身辺に仕えた。
 程なく大正12年の大震災である。
 その日、日康上人は法要のため大垣市に行かれ、留守を預る佐藤義宣師、身を以って尊像及び高祖御真筆本尊・開導日扇上人御真筆御本尊を御避難申し上げ、無事たるを得た。
 しかし地域的に教会所をはじめ、信徒のあらかたは被災したが、英邁な導師を戴く信者一同は、直ちに復興の意気に燃え、本所区松倉町に仮教会を建てた。
試練は止まない。昭和初年の不況時代、区画整理等々を経てかの大東亜戦争に突入。
 軍部の弾圧、要望に依り日康上人の弁舌は益々熱を加え、菩薩行即尽忠報国
(ぼさつぎょうそくじんちゅうほうこく)を唱えたりして自らの弁舌に自ら酔う感もあった。20年3月9日の大空襲に日康上人は、帝都警防団長として国に殉ずる。 世寿62歳。
 ここに稀代の大導師を失ったが、弟子佐藤義宣師、再び炎の中より御本尊御尊像 等を救出、平井の仮住まいに避難し、戦後ちりぢりになった信徒を回り布教を
行われた。
 昭和21年頃、京都本部宥清寺が法華宗を脱し、仏立講より仏立宗に独立する時、 義宣師は「我々は法華宗の仏立講であるのが本義である」とし法華宗に残り更なる 布教活動を行った。御功労の末、昭和26年1月15日現在地葛飾区東新小岩に
信隆寺を創立し開堂法要を奉修し名を日凰と号した。当山開山信隆院日凰である。
 昭和47年4月13日、御子息の日義上人に託されたが、昭和50年12月19日、日義上人が先に遷化された。世寿55歳。更に昭和52年1月11日日凰上人が
遷化された。世寿89歳。現在は義賢師(日賢)へと受け継がれ、昭和60年10月6日本堂客殿を落慶。更に老朽化した本堂客殿を平成22年4月29日現在の本堂を完成。現在に至る。